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蓬莱掛分壷「春夏秋冬」

(ほうらいかけわけつぼ「しゅんかしゅうとう」) Jar, Horai type

清水卯一

(しみず ういち) Shimizu Uichi
1993-96年
H 26.7cm W 25.2cm D 22.3cm

清水卯一は、古くからやきものの盛んな京都五條坂にある陶磁器の卸問屋の長男に生まれた。母の勧めにより小学校卒業後は立命館商業学校へ入学。しかし昭和15年(1940)、同校を2年で中退し作陶の道に進むことを決意する。叔父の勧めで洛北八瀬の陶芸家石黒宗麿に入門。戦時体制が強まるなか次第に薪の入手が困難となり、石黒の元に通ったのは数ヶ月であったが、この間に石黒から学んだ陶芸家としての姿勢は、彼の以後の作陶に大きな影響を与えた。昭和16年(1941)京都国立陶磁器試験場の伝習生となった清水は日根野作三、水町和三郎、船津英二、内田邦夫らに釉薬や図案の指導を受け、基礎的な釉薬研究に存分に取り組む。その後、京都市立工業試験場窯業部助手として就職。終戦を向かえると清水は試験場を辞職し、自宅の離れを工房に作陶を始めた。これまでの京都のやきものにない新しい作品を作ることを目指し、清水は地元の同年配の仲間と勉強会を開き「四耕会」「緑陶会」「京都陶芸家クラブ」といった新しいグループを結成。積極的に公募展にも出品して受賞を重ねた。昭和30年代初め頃には柿釉、油滴の作品に優れた個性的な作風を確立。当時鉄釉の焼成は還元炎による焼成が一般的であったなか、清水は酸化炎での焼成に成功する。昭和45年大気汚染防止法の施行により京都の市街地で登り窯が使えなくなったことを一つの契機に、滋賀県志賀町へ移り蓬莱窯を築いた。ここに若い頃からの念願であった登り窯を築き、以後堰をきったように新しい釉薬に挑戦していく。石黒から学んだ自分で材料を作ることへの憧れは彼の作陶のこだわりとなり、比良山系の山中を探し回って素地と釉薬のための陶土や磁土、石を求め、発色を追求した。そして氷裂貫入の青磁、青白磁に近い釉薬の蓬莱磁、そして黄蓬莱など、釉薬や素地土の素材の内部にあるものを導き出すように美しい色釉を創出してきた。その新たな釉薬開発のほとんどは地道な研究と試作を繰り返して得られた成果である。本作品は蓬莱窯に移ってのち、その意欲的な探求心により土と釉薬の内部にあるものをいかに生かすかという清水らしい取り組みの展開を示している。

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